できる人・できない人

ふと思ったことがあったので。

傲慢な考え方だけれど

私は技術を持っている。
たぶん、普通の人よりも。

学ぶ術に長けている。
思考力もそれなりにある。

でも、なにも創れない。
何も完成しない。

私より発想力が乏しくても。
私より技術に精通していなくても。

それでもナニカを生み出す人がいる。
誰かを衝き動かせる人がいる。

きっと理想に対する現実的な解。
それを持っているかいないか。
それだけの違いなんだと思う。

私は理想が高い。
完璧を追い求める。
でもくじけるし、投げ出す。

だから何もできない。
完成しない。

いや、しようとしないだけ?
やりたいことが多すぎるだけ?

両方かな、でもどっちでもないのかも。

一度ナニカを作ることに専念して
そのナニカを次第に良い物にして
最後には完全なものを作る

これをやってみればいいのかな。

うん、やってみよう。

1st take

ネタバレふくみますよ!

昨日研究室の人たちと上映会をしました。
魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語です。

それにしてもすばらしいですね、Blu-ray。
あの鮮明さはほんとうに恐れ入りますという感じです。

で、ですね。
私としては当然初回限定版を買ったわけです。
(実は初回限定版の何かを買うのははじめてなのですが…)
それについていた 1st take、気になります。

というわけでリテイクを見たあと、もう一度見ました。

私が気がついた相違点は以下です。
1. ほむらがまどかを捕まえる瞬間のセリフ
全体的に言っていることが異なっていましたね。
でも一番強く印象に残ったちがいは

リテイク「(この感情は)まどかだけのモノ」
1st take「(この感情は)私だけのモノ」

これです。

2. ほむらのセリフの演出
ひとことで言うならば「リテイクよりこわい」でした。
よりふくみをもたせたような、いかにも「悪」という
印象を植え付けるかのような演技になっていました。

この二点、私は非常に大事だと思います。
そして1st takeのほうが「しっくりくるくらいだ」と感じます。

なぜか?

まずリテイク版の私の解釈では
「ほむらはまどかのためにまどかを取り戻す」
ことを決意・実行します。

そしてまどかが円環の理になる前の人としての記録を切り離したのです。

しかし1st takeでは逆です。
「ほむらは自分のためにまどかを取り戻す」
ということをやってのけます。

するとなぜ
「円環の理になる前の人としての記録」
だけを切り離したのかが納得できます。

答えはわりと単純な気がします。
もし仮に円環の理となって以後の記録があったらどうなるでしょう。
恐らくまどかはその場でほむらと敵対したと想像できます。
これではほむらは困りますよね。

それ以後のさやかとのやりとりなども
あのいかにも「悪」なほむらのほうがなんとなく腑に落ちます。
# これは個人的なものだと思いますけど

そして
自己犠牲による救済と
自己満足による救済と
その一見対立するような
でも調和した世界

いろいろ意見があると思いますが私はこう思います。